水中考古学によるモンゴル襲来解明の試み

                          池田榮史(國學院大學研究開発推進機構教授)

 

 1260年ユーラシア大陸の大半を支配下に収めたモンゴル帝国の第五代皇帝フビライは国号を大元に改め、中国江南地域を支配する南宋への侵攻を本格化した。その矛先は日本へも向けられ、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度にわたる侵攻があった。これを当時の日本では「蒙古合戦」、また後世になって「元寇」と呼んでおり、近年では「モンゴル襲来」とすることが多い。モンゴル襲来については、戦闘に参陣した鎌倉幕府御家人の竹崎季長が残した『蒙古襲来絵詞』に描かれており、小・中・高の歴史教科書にも引用されている。また、戦前の歴史教科書では、国難に見舞われた日本を神風が救った事象として大きく喧伝されていたこともあり、日本人の間での周知度は極めて高い。

長崎・佐賀両県の県境に位置する伊万里湾は二度目のモンゴル襲来である弘安の役の際、韓半島から進発した東路軍(兵員約4万人、船舶約900艘)と、中国杭州湾周辺から進発した江南軍(兵員約10万人、船舶約3500艘)が合流した直後、暴風雨(伝承にいう神風)に遭い、壊滅的な被害を受けた海域とされる。伊万里湾の湾口を塞ぐ位置にある鷹島の南海岸及び沖合の海底からは中国陶磁器をはじめとする多くの遺物が得られており、これを証明する資料と考えられてきた。

 このこともあり、鷹島では1980年からモンゴル襲来の実態解明を目指した水中考古学手法による調査研究が始められた。また、これを契機として、翌1981年には鷹島南海岸線延長約7.5kmの沖合200mの海域約1,500,000㎡が「鷹島海底遺跡」として周知化され、この海域内で実施される港湾や護岸工事などの際には、事前の確認調査を行うことが義務付けられた。また、科学研究費などによる学術調査も継起的に実施されることとなった。

しかしながら、これらの調査は基本的に港湾工事対象地周辺にとどまり、東西約13km、南北約8kmに及ぶ伊万里湾全域を対象として、モンゴル襲来の痕跡を本格的に確認する調査とはならなかった。そこで、私たちの研究グループでは科学研究費補助金を得て、まず伊万里湾全域の海底地形情報および地層堆積情報を取得することとした。その上で、水中考古学手法による調査研究を試み、2011年に「鷹島1号沈没船、」2014年に「鷹島2号沈没船」の確認に成功した。これを受け、文化庁では20123月にこれまで多くの元軍船関連遺物が検出されてきた鷹島神崎港を中心として、「鷹島1号沈没船」の現地保存海底位置を含む約384,000㎡の範囲について、日本の海底遺跡としては初めての国史跡となる「鷹島神崎遺跡」に指定した。

また、「鷹島神崎遺跡」を管理する長崎県松浦市では、20174月に市立水中考古学研究センターを開設し、鷹島海底遺跡及びこれまでに出土した遺物の保存・管理・公開・活用活動に取り組んでいる。さらに、2023年からは「鷹島3号沈没船」の検出を目指した新たな海底試掘確認調査を実施しており、今後しばらくは継続することとしている。